Anastasiya Shcherbakova từ Bahori, Punjab, India

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12/22/2024

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Anastasiya Shcherbakova Sách lại (10)

2019-06-12 11:31

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Sách được viết bởi Bởi: Robin Kaye

台湾歩兵第一聯隊砲通信部隊上等兵として終戦を迎え、ほどなく原隊を離脱し義勇軍ゲリラとしてインドネシア独立戦争に参加、独立後はバリに定住し、2004年6月5日に永眠したイ・ニョマン・ブレレン・タイラ(平良定三)の波瀾に充ちた生涯を描いた伝記。旧大日本帝國アジア・太平洋戦線における軍隊と現地との関係や、インドネシア独立の過程とその後の混乱を生きる民衆の姿、そして日本の戦後高度経済成長を背景に空前の観光ブームに沸くバリ現地社会の変容もまた、彼の生涯を通して描かれている。 一人の未帰還兵の人間ドラマとしても、またバリ現代史の記録としても非常に興味深い内容で、この「英雄」の姿(から炙り出される倫理的な「旧き善き日本人」像)がやや美化されているきらいはあるものの、複数回にわたる本人からの聞き書きを含め足掛け10年に及ぶ丹念な取材の成果が遺憾なく発揮されたノンフィクションと言えよう。 平良定三は1920(大正9)年11月4日、沖縄県宮古島支庁平良村(現在の沖縄県宮古島市平良)出身で、土地の伝説的豪族の家系に生まれ、地元の中学を卒業後、大阪で勤労学生としての日々を送り、後に弟の誘いもあって台北へと移住する。そこで召集を受け、福岡で兵籍登録後に台北に戻り、台湾歩兵第一聯隊に配属された。当初、台湾警備の任務に充てられたが、自ら志願し南方戦線へと赴任、一年間の海南島駐留を経て、真珠湾攻撃と同時にフィリピン戦線へと移送され翌1942年1月のマニラ入城に参加、さらにインドネシアへと転戦し、ティモールで敗戦を迎える。 ここまでが本書のいわば「前史」となる部分だが、平良とはついに邂逅することのなかったものの、戦前よりバリ現地社会に根付いた唯一の日本人として旧日本軍との緩衝役としても大きな役割を果たした三浦襄の生涯(彼は軍が現地社会に与えた負の側面を精確に見据え、敗戦の報を承けた直後にバリ島各地で「お詫び行脚」を重ねた後、1945年9月7日にデンパサールの自宅でピストル自決した)にも触れられ、これはこの小さな南洋の島と日本との、意外とも思える歴史的な関わりの一断面を魅力的に示すとともに、その後の平良の生涯の姿勢とも重ね合わされているかのようだ。 奇しくも三浦の自決と同日、前線で武装解除した後に原隊への合流を目指してバリに上陸した平良らの一行は、そこでインドネシア独立の機運の高まりに直面することになる。以降、一度は集結した原隊から離脱し、旧日本軍の撤退により再びその権勢を取り戻したオランダと複雑な地理的/民族的困難を抱えるインドネシアの独立戦争に参加した平良ほか日本人義勇兵の戦記が、本書の中核を成す。 それぞれの動機や事情から、バリ現地だけで約20名の旧日本兵が義勇軍に参加しているが、第二章では、現地ゲリラの結成の様子と併せて彼らの横顔が紹介されている(それぞれにバリ名を戴き、正確な日本名が伝えられないまま戦死した者も多いが、著者は平良へのインタヴューのほか当時の資料にも丹念に当たっていることが、この一人一人の履歴の記述からも伺える)。 続く第三章では、英雄的な若きゲリラ指揮官ングラ・ライとその参謀ウィスヌとの交流、植民地軍の攻撃と懐柔による現地社会の混乱と裏切り、40日間にわたる独立軍ゲリラの「ロング・マーチ」、日本人遊撃隊の結成、激しい攻防の中で次々に斃れゆく戦友たち、そして戦力的消耗からの再起を図るため本隊を解散したゲリラたちに降り掛かった1946年11月20日の壊滅的なマルガーの戦闘までが語られる。 第四章では、ングラ・ライらと別行動を取ったために生き残った平良が山中に潜伏し、最後の日本人義勇兵として転戦する日々が語られる(戦闘中のジャングルで彼が出くわしたいくつもの怪異現象の挿話も記されているが、それは同時に彼の生まれ故郷である宮古島をはじめとする琉球弧の各地に今も残る伝承とも深く結びつくものであろう)。 ここではまた、彼の体験した個別の戦線のエピソードとともに、この間の国際情勢の推移が語られ、当事国社会の確執と思惑によって当初、バリを疎外するかたちで進められたものの、最終的に植民地インドネシアの悲願であった独立が達成されていく経緯が説明されている。 そして、独立戦争終戦後の混迷や続く政情不安に翻弄されながらも現地社会に溶込み、各地に散った旧日本兵の慰霊を続け、いくつかの職を転々とした後に、観光リゾートとして復興を遂げたバリの日本人向けガイド育成者として過ごした日々とその晩年までの生涯が、沖縄の「本土復帰」後に故郷の宮古島への一時帰郷を果たしたエピソードを挿みつつ、語られる。 生前、平良がよく語っていたという「大洋を渡る椰子の実」のエピソードが、本書中に幾度か登場する。遠く漂着した土地に芽吹き、根を張った椰子の実のイメージは、たしかに運命に翻弄されながらも「一度も降伏したことのない」彼の人生を象徴するものであったように思われる。著者はエピローグで、この話を柳田國男の「海上の道」に重ねているが、さらに言えば、近年の歴史学や民俗学の成果が明らかにするように、日本が海に隔てられた閉鎖的な「島国」などではなく、むしろ人々は古来から海流に乗って驚くべき広がりを持つ生活を営み独自の交易圏を形成していたという事実――徳川幕府の鎖国政策によって一度は失われたその想像力――を、この数奇な運命を生きた一人の日本人の姿から垣間見る思いさえするのは、必ずしも牽強付会には当たらないだろう。 その彼が生前、義勇兵としてインドネシア独立戦争に参加したことを「日本人の罪滅ぼし」だと語り、また、姪へと宛てた手紙に「居残ったのは、ただ犠牲になった戦友の事を思えばこそ」と書き綴りながら、ときに望郷の念に揺れつつも最後まで現地社会に密着して生きたことの意味は、一人、彼の意志や信条を超えて、「戦後」を生きた一人一人が考えなければならない問いでもある。

Người đọc Anastasiya Shcherbakova từ Bahori, Punjab, India

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